大判例

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新潟地方裁判所新発田支部 昭和41年(わ)74号 判決

被告人 大野学

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は

被告人は車両運転の業務に従事する者であるが、昭和四〇年一一月一八日午前八時五五分ころ、新潟市一番堀通二の一番地附近道路において、大型貨物自動車を運転中、その業務上必要な注意義務(進行、停止、発進するに当つては、前方左右の交通の状況を注視し、安全を妨げる状況を適確に判断して運転すべき注意義務)を怠り、手押車を押して道路左側を同一方向に歩行中の山田キク(八八年)の傍を通過した後、一旦停車したのにその際同人に気付かず、発進するに際し漫然発進進行した過失により、自車左前輪で轢き、よつて同人に対し骨盤骨折等の傷害を負わせ、同日午前一〇時三〇分ころ、同市西堀通七番町一、五六三番地長谷川病院において死亡するに至らしめたものである。

というのである。

よつて審按するに

一、本件事故現場附近の状況

司法警察員および検察官作成の各実況見分調書、被告人の司法警察員に対する昭和四〇年一一月一九日付供述調書、被告人の第五回公判廷における供述を綜合すると、本件事故現場附近の状況は次のとおりであることを認めることができる。

(イ)  本件事故現場は新潟市一番堀通道路から新潟地方裁判所正門前において同市白山浦方面に通ずる道路の分岐点にあたる信号機の設備のない三差路交差点に設けられた横断歩道に近接する同交差点内であつて、一番堀通道路は歩車道の区別のある車道幅員二八・五メートル、白山浦方面に通ずる道路は歩車道の区別のある車道幅員(電車軌道敷を除く)一三・八メートルで、いずれも相当広い平坦なアスフアルト舗装された道路であつて、三差路交差点の東方約五〇メートルの箇所に一番堀通道路とこれより北方に延びる西堀通道路との丁字路交差点があり、同交差点には信号機が設置されている。

(ロ)  右丁字路交差点と右横断歩道との中間で右横断歩道から東方約二五メートルの一番堀通道路南側(被告人の進行方向に向つて左側)歩道上にバス停留所標柱が立てられている。

(ハ)  本件事故現場附近には新潟地方裁判所、新潟県庁、新潟交通株式会社電鉄県庁駅前、白山神社などがあり、新潟市内の中心部にあたり、前記各道路は交通量の多い主要道路で、本件事故当時においても被告人が右横断歩道手前で一時停止中にその後方に相当多数の自動車が順次一時停止し、その列は前記丁字路交差点近くに達する状況であつた。

二、本件事故発生状況

前顕各証拠に稲家功の検察官および司法警察員に対する各供述調書、稲葉宣夫、小野武志、山田長松の司法警察職員に対する各供述調書、医師長谷川圭吾作成の死亡診断書、交通課巡査部長町田健三作成の「被疑車両の死角部分の調査結果について」と題する書面、当裁判所の各検証調書、証人山田長松、同町田健三に対する当裁判所の各証人尋問調書、被告人の検察官に対する昭和四一年九月三日付供述調書を綜合すると、次の事実が認定できる。

(イ)  被告人の行為

被告人は昭和四〇年一一月一八日ダンプ型大型貨物自動車(新一そ六四二五号)を運転して砂運搬の作業に従事していたが、同日午前八時五〇分ころ砂採取場へ向うため、右自動車を空車で運転して西堀通道路を南進し、同道路と一番堀通道路との丁字路交差点を右折した際、進路前方左側端にあるバス停留所から被告人の進行方向と同方向に向つて発進し始めた稲家功運転のバスを認めこれより少し遅れて先行するライトバン型自動車に追随して時速約二〇キロメートルの速度で一番堀通道路の中心線寄り左側を西進し、漸次進路を左に変え前記横断歩道手前に達したが、このとき前記バスが多数の横断歩行者の横断を終るのを待つため既に右横断歩道手前の車道左側端から約一メートル中央寄りの車道に一時停止していたので、その右側に約一メートルの間隔をとり、先行したライトバン型自動車の後方一~二メートルの地点に一時停止して他の自動車とともに横断者の横断を終るのを待つた。そして、被告人は一時停止中、横断歩道上の横断者の状況や前車がいつ発進するかに留意し絶えず前方左右を注視しており、横断者が杜絶えて前車が発進するや、直ちにバツクミラーで側方の安全をも確認し、前車に続いて発進したところ、約一メートルも進行しないうちに折柄被告人の自動車の直前を横切ろうとして被告人の車の左前面まで進出してきていた山田キク(明治一一年四月八日生、当時八七歳)に自車の左前部を衝突させて同人に骨盤骨折等の傷害を負わせ、同日午前一〇時三〇分ころ新潟市西堀通七番町一、五六三番地長谷川病院において同人を死亡するに至らしめたものであるが、被告人が発進しようとしてバツクミラーを見た当時における同人の位置は被告人の自動車の左前面角附近であつて、バツクミラーにも写らず、また被告人の座席からは自動車のボンネツトに遮られて直接見ることもできない死角内であつて、被告人は同人を発見していない。

また、被告人が前記西堀通道路と一番堀通道路との丁字路交差点において右折するころ、山田キクは後記のように同所附近の車道左側端附近を被告人の進行方向と同一方向に向つて手押車を押して歩行しており、被告人は同人を追抜いたのであるが、同人の姿を見落し、同人に気付かないで通過した。

(ロ)  被害者山田キクの通行状況

山田キクは野菜類を商つているが、商用の野菜を乳母車を改造した手押車で運搬しての帰途、空車となつた手押車を押して一番堀通道路の車道左側端から二~三メートルの箇所を西進し西堀通道路との丁字路交差点附近(前記バス停留所の東方約二二・八メートルの地点)で稲家功運転のバスに追抜かれたが、間もなく前記三差路交差点の横断歩道近くに到り、同横断歩道の手前で並列一時停止している右バスと被告人の自動車との間の僅か一メートル余の間隙に入り込み、被告人の自動車の左側を通過して被告人の自動車とその前方に一時停止中のライトバン型自動車との間を横切ろうとして被告人の自動車の左前面角の直前で右折して同車両の前に進出した。ところが、このとき死角になつていたため同人の存在に気付かなかつた被告人が発進したので本件事故となつた。

三、被害者の通行方法の当否

被害者山田キクの通行方法の当否を考えるには、先ず同人が押していた乳母車を改造した手押車が依然乳母車といえるものならば同人は歩道を通行すべきであり、それが軽車両にあたるならば同人は車道の左側端寄りを通行すべきであるので、そのいずれであるかを判断する必要があるところ、司法警察員作成の実況見分調書、証人山田長松に対する当裁判所の証人尋問調書によると、右手押車は乳母車の乳幼児を乗せる車体部分全部を取り除き、車輪、車台および車を押す際に握る把手の部分のみとし、その車台の上に板片二枚を乗せただけのもので、最早や乳幼児を乗せることのできないものであることを認めることができるから、道路交通法にいう軽車両に属するものと思料する。そうだとすると、同人が歩道や横断歩道を通行しなかつたことは正当であるといえるが、前記のように横断歩道手前において既に一時停止しているバスと被告人の自動車との間の僅かな間隙を通過して、被告人の自動車の直前で、しかも運転者から見て死角にあたる箇所を左から右へ横切る行為は道路交通法第三二条に違反する通行方法であるのみならず、多数の自動車が列をなして一時停止をしている中へ入り込み、かついつ発進するかも知れない自動車の直前の死角内を横切ろうとする行為は極めて危険なことで、何人もしないような無謀な通行方法というべきであろう。

四、被告人の過失の有無について

横断歩道の直前で横断中の歩行者があるため一時停止している車両等が多数列をなしている場合において、その車両等に追いついた車両が右一時停止中の車両等の側方を通過してその前方に割り込んだり、その前方を横切ることを道路交通法によつて禁止されていることは前説示のとおりで、このような違法で危険度の高い行為に出る歩行者や軽車両は極めて稀であり、一般にはそのようなことをしないのが通例であるから、その一時停止した自動車の運転者としては、特別な事情のないかぎり後から追いついた車両が交通法規を守り右のような違法で危険な行動に出ないことを信頼して行動するを常とし、またそれをもつて足るものというべきであり、従つて被告人が自車を発進させるにあたり前示認定のように運転席において前方左右および側方の安全を確認したが、たまたま死角になつていたため自車直前を横切ろうとしていた山田キクを発見することができず、異状がないものと信じて自車発進の挙に出たことをもつて、横断歩道直前において一時停止中の車両を発進させる場合における注意義務に欠けるところがあるとすることはできないものと思料する(最高裁判所昭和四〇年(あ)第一七五二号昭和四一年一二月二〇日第三小法廷判決参照)。ところで、検察官はさきに被告人が西堀通道路と一番堀通道路との丁字路交差点を右折したころ同方向に進行中の山田キクを追抜く際、同人に気付かなかつたことを過失とし、これと横断歩道で一時停止した際における注意義務とを結びつけ、その注意義務が加重され被告人に過失責任があると主張するけれども

(イ)  一番堀通道路は車道の幅員が二八・五メートルもある広い道路で、被告人は西堀通道路から右丁字路交差点に入り右折して一番堀通道路の中央線沿いを西進したものであり、山田キクは同道路の左側端附近を同方に進行したものであつて、両車両間には相当大きな間隔があつて同人が被告人の車の進行に支障をきたすとか、多少なりとも危険を感ずるような位置にいたものではないから、右丁字路交差点を右折した被告人にとつては自己の進路にあたる道路中央近くを進行する先行自動車や対向自動車等の位置、進行方向、速度などに充分注意し、これらと接触しないよう留意して進行する必要があり、そのため山田キクが異様な手押車を押して通行していたとはいえ同人の姿を見落したか或は同人を見ても時々刻々に通過する路傍の無数に存する通行人や車両等を逐一記憶していないのと同様、特別同人に関心を抱かずその存在を記憶していなかつたとしても格別被告人が不注意であつたということはいえない。(なお、若しこの時点において自車の進行に何等関係のない車道左側端附近を通行している同人の動静を注視していて対向自動車や先行自動車等に対する注視が不充分となり、これら車両と接触等の事故を発生させたならば、脇見運転としての責任を免れないであろう)それゆえ、被告人が同人を見落しまたは記憶していなかつたことをもつて被告人に過失があるとすることは妥当でない。

(ロ)  被告人が山田キクを追抜いたとみられる前記丁字路附近から一時停止した前記横断歩道附近までには約五〇メートルの距離があるところ、歩行者や軽車両を運行している者は路上で知人に会つて立話をしたり、引返したり、反対側へ横断したり或は休息したりなどすることが往々にしてあり、追抜かれた後も追抜かれた当時における進行方向と同一方向へ同一速度で継続進行するとはかぎらず、他面自動車運転者はいつどこで一時停止を余儀なくさせられるか図り難い場合が多く、また高速で進行し次から次へと目前に迫つてくる危険を注意深く回避するのに全神経を集中しているのが市街地を運転する場合の常態であるから、かような自動車運転者に対し、一時停止をするたびごとに後方数十メートルの区間においてなんの危険も感ぜず追抜いてきた歩行者や軽車両を記憶していて、それがはたして追つくかどうかもわからないのに、これが追つき道路交通法規を無視し、かつ危険を冒して割込みや横切り行為に出ることまでも予測して特別の注意を払うべきことを要求することは無用であるのみならず、人の注意能力には限界があるものであるから余りにも多くの注意義務を課し、そのため前方左右の注視がおろそかになり前車の発進後遅滞なく発進しなかつたり交通事故を起したりするようなことがあれば、かえつて都市交通の円滑を阻害する結果を招くこととなるかも知れないので、かような注意義務を要求することは相当でない。それゆえ、被告人が約五〇メートル後方で追抜いた山田キクを追抜きの際発見したか否か、また同人が自己と同一方向に向つて進行していることを記憶していたか否かにかかわらず、前記一時停止した後自車を発進させるにあたり同人に対し特別の注意を払わなかつたことをもつて被告人に過失があるとすることはできないものと考える。

してみると、検察官の被告人に注意義務懈怠の過失があるとしてなす前記主張も採用することができない。

以上説示するところによつて明らかなように、被告人には本件事故発生について過失がないものというべきであるから、本件公訴事実は結局その犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法第三三六条後段により被告人に対し無罪の言渡をするものとする。

(裁判官 小笠原肇)

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